人間関係のための救急蘇生法 C P R -対立の予防と解決のための7つのステップ

人間関係のための救急蘇生法

-対立の予防と解決のための7つのステップ

人々は仲良くやるのに失敗する。なぜなら互いに恐れ合っているから。彼らは互いに恐れて合っている。なぜなら互いを知らないから。 彼らは互いを知らない。なぜなら、互いに心を通わせ合ったことがないから。

マーティン・ルーサー・キング、JR.

個人的覚書

 この本は変化、それも、個人的な変化について書いたものである。何年もの間、私は典型的なやり方で対立を扱っていた。 つまり対立を避けるか、できる限りの大声で叫ぶといったテクニックを使うというやり方で。どちらもいつも失敗だった。 しかし新しい対立が生じるときはいつでも、同じ方法で対立に取り組み、同じように失望する結果となった。 幸運なことに、私は経験から学び、変わった。同様に、私の人間関係も。
 私の人との関わり方は変わり、2つの重要なことを学んだ。 ひとつは、もし私が人の苦しい状況を理解し思いやりの気持ちをもつなら、私は対立がエスカレートすることは望まないということである。 2つ目は、人間関係と私自身の本当の変化は、情緒的な経験と結びついてはじめて生まれるということだ。 そうでなければ、対立は繰り返し起きることになる。このように変化した結果、私は妥協や回避をすることで自分の力をあきらめることはなく、言語的な報復で他の人々を傷つけたりもしなくなった。
 しばしば最も近くにいる人々が、最も大きな対立を引き起こし、愛や思いやりを示さないことがあるが、私の母との関係がそうであった。 私は彼女がどういう人なのか、ほとんど理解していなかったし、気にもしなかった。 彼女が私を理解していると思っていなかったので、私の態度は彼女を締め出すようなものであった。 私は母に対してある程度従順であったが、それはもっぱら義務感からであり、愛によるものではなかった。 次の話は、私がどのように人生を変える2つの学びをしたかであり、私の母との壊れた関係がどのように一瞬にして変化したかについてである。
 母のほんのわずかの非難めいた表情で、私は怒りを感じた。彼女の価値感や彼女が自分の人生に対して抱えているフラストレーションが、重い毛布のように私に覆いかぶさっていた。 母と一緒にいると、私はその重さで息苦しくなるような思いがした。私がすることすべてが批判、あるいは非難されているように思えた。 彼女の小言を逃れるためにその場を去らなかったら、私は彼女の激しい怒りに反発して激怒していただろう。 そして彼女は泣きながらその場を立ち去ることになり、私は自分が最低の人間であるように感じてしまうことになるのだった。 このダイナミクスは、35歳で自身の中に劇的な変化を経験するまで、20年以上にわたって続いた。
 当時、私は婚約者と別れた。このトラウマ的な出来事で私は苦しんだが、それによって、なぜ自分は感情表現ができない女性に引き付けられることになってしまうのか原因を突き止めようという気持ちになった。 私の人生で最初の女性である母に会いに行き、私にとって感情的には存在したことがなかった母はどういう人なのかを知ろうと決心をした。
 次の日、車で彼女の家に行ったが、私は怯えていた。彼女が答えたくないであろう個人的な質問を尋ねるつもりだったからだ。 心の底では彼女が私を拒絶するだろうという恐れがあった。母は、過去について話し合うことを弱さのしるしだと思っており、彼女自身について誰にも話したことはなかった。 何を尋ねたらいいのかわからなかったが、彼女を理解する必要があることは間違いないと思っていた。
 私たちが夕食をとっている時、夕方のニュース番組が、今日は広島に原爆が落とされた50周年記念日であることを報道していた。 これは母についてもっと理解する良い機会だと思い、第2次世界大戦中の東京での暮らしはどんなものだったのか、母に尋ねた。 驚いたことに、彼女は1945年のとき16歳だったこと、高校に行く代わりに飛行機工場で働いていたと答えた。 彼女は無表情のまま、東京を襲ったアメリカの爆撃機による焼夷弾襲撃で、終戦直前数か月の間に、たくさんのクラスメートが殺されたと話した。 この期間に250,000人もの市民が亡くなったのだが、私の母は生き残ったのだった。
 恋をしたことがあったかと、突然、勇気を出して尋ねた。彼女があったと答えたときは驚いたが、その相手は父ではなかった。 興奮して、そのことについて話してくれるよう頼んだ。(子どもの時以来)初めて、自分が母とつながっていると感じた。 愛した18歳の少年を愛情を込めて思い起こしたのか、彼女の顔が明るくなった。 しかし彼女の束の間の幸せは、彼が兵役に召集され、戦争の末期に戦場に派遣されたと話した時、悲しみに変わった。彼はまもなく死んだのだった。
 そのとき、私の母についての見方が変わった。私たちの間の重くるしさが突然軽くなった。 彼女は以前の表面的な母ではなく、人間らしい人になった。同時に、私はなぜ彼女が心を閉ざし、要求がましく、非情でさえあったのかを理解し始めた。 若い頃の経験のために多くの年月を耐え抜いた彼女の痛みを垣間見たようだった。 そしてそれらの出来事が間接的に私のしつけ方を形づくったのだとわかった。 母は、私が人生の困難に耐えられるよう、私を強くしようとしたのだ。 彼女は溺愛などせず、私が優秀になるよう迫ったが、それは私を引きこもらせ、くじけさせるだけであった。 彼女が心を開いたその数分間で、母への思いやりが生まれた。彼女は若い時代にとてつもなく大きな喪失に苦しんだ人だったのだ。 感情的に傷ついた結果、自分を守る方法として頑なになった。彼女は、自分ができる最善の方法、つまり、彼女だけが知っている方法で私を育てたのだという事がわかった。
 大人になって初めて、私は母への本当の愛を感じた。自分の息子の感情的な苦悩への思いやりを感じた。 私への愛から、彼女は人生のもっとも困難で個人的な出来事を分かち合ってくれた。 母にとって自分の弱さを見せることは大変難しいことであることを私は知っているし、そうしてくれたことで私は、いっそう彼女に感謝した。
 彼女の家に着く前は、今まではやったことはなかたが、母を抱きしめるか、せめて「愛してる」と言おうと決心していた。 帰るドアのところで私は母の方に振り向いて「(戦争で)殺された人が僕のお父さんだったかもしれないね」と言った。 「そうね、彼はとてもハンサムでいい人だったわ」と母は答えた。私は感情を抑えきれずに泣きくずれ、彼女を強く抱きしめた。 私が落ち着いて一歩下がった時、母が右手を私の顔の方にもってきた。 私の頬を愛情深くなでてくれるのだと私は思っていたが、やさしく何回か叩いて、「ショー、あなたは強くならなくてはいけないわ」と言った。 私は「あなたのおかげで強いよ」と答えた。彼女に愛していると告げ、もう一度抱きしめた。
 その夕方、車で家に戻る道すがら、私は変化した。過去15年の間に、私たちの関係は進化し続けた。 母が私をコントロールする必要性は、大幅に少なくなってきた。 彼女がそうしたいときは、私は彼女の言うことを穏やかに思いやりを持って聞くことができ、私は自分を守ろうとかまえないで彼女の感情を認めることができる。 彼女が私に批判的で非難的なときも、私は反撃したいと感じない。
 母の話は、思いがけなくも彼女との関係を阻んでいた恨みの壁を取り除くという情緒的な経験になった。 私は、本当に人を理解すれば、二人を分かつものはほとんどないことを十分に学んだ。 多くの人々が何らかの形で傷つき心にダメージを受けているが、思いやりは私たちを結びつけ、人から逃げたり、あるいは逃げられたりするような対立を和らげてくれている。